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                     意 見 書



 「現代日本における信教の自由の拡充・拡大について」


  
  
                   龍谷大学法学部教授

                      平 野  武




























































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1 日本国憲法における信教の自由と政教分離
 日本国憲法は、20条において信教の自由を保障している。信教の自由という言葉は明治憲法でも使用されており、日本国憲法もその言葉を踏襲しているが、諸外国では宗教の自由と呼ばれているものである。すなわち、日本国憲法の信教の自由は、宗教の自由のことであり、その内容は、宗教を信じる自由すなわち信仰の自由にとどまらず、宗教行為の自由、宗教的集会・結社の自由をも含むものである。この信教の自由は、歴史的にはもっとも古い人権として登場し、今日では世界各国の憲法や世界人権宣言(第18条)、国際人権規約(B規約、第18条)の中で普遍的に保障されている確立した自由である。
 信教の自由が保障されているとは、すべての国民が信仰、宗教行為、宗教的集会・結社について強制・禁止(さらにはこれにつながる不利益な取り扱い)をされないこと(人権の性質上その保障は外国人にも及ぶと解される。)、公権力に対しては強制・禁止(不利益取り扱いも含む)を禁止するということを意味する(さらに今日、信教の自由が私人間でも保障されるべきことは多言を要しないであろう。)。信教の自由は無宗教の自由も含む。一切の宗教を信じない自由、あらゆる宗教行為を拒否し、すべての宗教的集会・結社に加わらない自由も保障される。以上のような信教の自由は、すでに確立された人権の一つであり、以上のような理解についても一般に広く受け入れられており、特に異論はないと考えられる。
 日本国憲法は、信教の自由と並んで政教分離の原則を採用している。政教分離は、国家の宗教的中立性と世俗性という要素からなるといってよい。そこでは宗教の私事性の原則が要請される。政教分離原則は、宗教にいかなる意味においても公的な地位を認めず、これを個人の私的事項とする。しかし、日本国憲法の政教分離原則は、宗教を軽視・敵視するものではない。憲法は、個人の尊厳を基調とし、信教の自由に手厚い保護を与えているから、そこでは、宗教は私事として尊重されていると解される。日本国憲法の政教分離原則は、宗教を個人的な問題としてその多様で豊かな発達を保障する制度であるといえる。
 現代の世界各国の憲法を見ると、信教の自由は一応確立されたものということができるが、それは必ずしも政教分離を伴っているわけではない。そのような中で日本国憲法が歴史的経緯から政教分離を採用したことの意味を考えなければならない。日本国憲法が、信教の自由を詳細かつ具体的に保障し、その政教分離原則が宗教を「私事」として位置づけていることの意義についてはもっと重視されてしかるべきであろう。
 日本国憲法の信教の自由と政教分離については、いくつかの特色を指摘できる。まず、信教の自由の規定が詳細かつ具体的である。憲法20条は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」との一般的規定のほかに、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」との具体的な保障規定を有している(「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」との規定も信教の自由を保障するものと解することができるが、この点は後述する。)。また、日本国憲法では信教の自由が政教分離と一体的に保障されている。さらに信教の自由と政教分離は、憲法の成立過程(ポツダム宣言、国家神道を廃止するいわゆる神道指令、信教の自由等の精神的自由を保障するいわゆる自由指令を踏まえて憲法は制定された。)を見れぱ、憲法の基底として位置づけられるべきものである。日本国憲法の政教分離の規定についても、世界各国の憲法の規定に比べると詳細であるとともに具体的であるといえる。そのことは、国及びその機関の宗教的活動の禁止、宗教団体の特権付与の禁止、政治上の権力行使の禁止(以


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上、第20条)、さらには宗教上の組織・団体への公金等の支出等の禁止(第89条)を見れぱ、明白である。日本国憲法の信教の自由と政教分離の規定は、今日でも先進的なものと評価できるものである。
 日本国憲法の信教の自由と政教分離については、歴史的観点からの理解が必要であろう。憲法の信教の自由と政教分離が戦前の国家神道体制を否定する意味があることはいうまでもないであろう。そのことは、最高裁も認めているところである。憲法が、「明治維新以降、国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、20条1項後段、3項、89条において、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定を設けた。」ことは、津地鎮祭訴訟最高裁判決(昭52・7・13、民集31・4・533)以来、最高裁が繰り返し言及しているところである(愛媛玉串料訴訟最高裁判決(平9・4・2、民集51・4・1678)でも確認されている。)。
 周知の通り、国家神道体制の下では神社神道は国家の祭祀とされ、国民にその崇敬が求められた。明治憲法は28条で信教の自由を保障していたが、神社神道は宗教でないとされ(「神社非宗教論」)、その崇敬が国民に義務づけられたのである。宗教でないとされた神社神道は、事実上国教であった。そして、このような神社神道は、伊勢神宮を頂点とする社格制度の下、全国的に階層化されたが、その中で、靖国神社は別格官幣社として位置づけられ、国民を精神的に支配し、戦争へと動員するのに大きな役割を果たした。靖国神社において戦死者は忠臣、国家の英霊とされた。国民の死が位置づけられ、死の管理がなされたのである。
 戦後のいわゆる民主化は、以上のような国家神道体制を否定することから始まった。自由指令、神道指令を経て、現行の体制が成立したことについては多言を要しない。国家神道体制は、制度として否定されたが、現実に完全に消滅したとはいいきれない状況である。正月には内閣総理大臣らの伊勢神宮参拝が続いており、8月15日前後にも靖国神社に同様のことがなされている。国家神道体制の下で中心的な地位を占めていた二つの神社は今日も特別の扱いをされているのである。このことは日本国憲法の根底を揺るがす重大な問題といえよう。
 国家神道体制を否定するという課題を担った日本国憲法の信教の自由と政教分離の原則は、厳格に遵守されなけれぱならない。そして、そのように考えることから、日本国憲法の規定を基礎にして、今日、信教の自由の一層の拡充・拡大、すなわちすでに確立された信教の自由(これを狭義の信教の自由といってよい。)を超える新たな展開が可能になるように思われる。日本国憲法に依拠して、信教の自由については、単に信教に関する強制、禁止を超えて新たな展開が可能であるといえよう。
 信教の自由の拡充・拡大に関して、日本国憲法の基本原理である個人の尊重、尊厳とのかかわりも当然問題になる。日本国憲法は、個人の尊厳を蹂躙した全体主義を否定することを基本原理としている。すべての個人はかけがえのない存在であり、そのようなものとして尊重されるのである。そのような考え方からプライバシーの権利、個人の自立・自律権の保障もされていると解されるが、宗教はそのような個人の内面を根底から支えるものとして位置づけられよう。
 世界的に確立されている信教の自由(狭義の信教の自由)の保障の重要性について、否定するつもりはまったくないが、以上のような認識を前提にすれぱ、現代日本ではそれを超えて宗教に関わる自由をより広く考えることができるであろう。宗教多元主義とでもいうべき日本の現状において、宗教が個別化し多様な展開を見せていること、宗教が現実にますます私的事項、個人的事項のものとなりつつあることからしても、そのことは必要であるように思われる。今日の社会の基本原理であ


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る個人の尊厳と信教の自由はしぱしぱ結び付く。そのような中で、単にある宗教を信じることを強制されたり、ある宗教儀式への参加を強制されたりしない自由を超えて、信仰を個々人の干渉されない私的・個人的事項として尊重してほしいという要求を権利として認めるべきであるとの主張は、今日、十分説得力をもつと考えられるのである。
 すでに確立された信教の自由を超えて宗教に関する自由を拡充・拡大することができるとしても、その具体的な内容をどのように考えるべきかが問題になる。この問題については、現代日本における宗教の形、信仰のあり方にも関連させて考える必要があろうが、この十数年の判例の流れの中でも一定の方向は確認することができるように思われる。そこで、以下、判例に即して問題を検討する。

2 宗教的人格権について
(1) 自衛官合祀訴訟
 信教の自由の展開に関して、まず、宗教的人格権をとりあげたい。周知のとおり、宗教的人格権についての議論がなされたのは自衛官合祀訴訟においてであった。
 自衛官合祀訴訟では、公務中に事故によって死亡した自衛官を自衛隊山口県地方連絡部(国)と隊友会が山口県護国神社へ合祀の申請をしたことについて、遺族(妻)が宗教的人格権を侵害すると主張した。山口地裁は、この訴に対して次のように判示した(山口地判昭54・3・22、判時921・44)。
 「一般に人が自已もしくは親しい者の死について他人から干渉を受けない静謐の中で宗教上の感情と思考を巡らせ、行為をなすことの利益を宗教上の人格権の一内容としてとらえることができると解される。人が自已の死に対してこのような人格権を有することは明らかであると考えられるが、他人の死に対しても、これを肯定しうるかは一応問題となる。しかし人は現世において自已に最も近い者として配偶者と共同の生活を営み、精神生活を共同にするものであるから、配偶者の死に対して自己の死に準ずる程の関心を抱くのは通常であり、従って他人に干渉されることなく故人を宗教的に取扱うことの利益も、右にいう人格権と考えることが許されると解される。」
 この山口地裁判決は、宗教的人格権をはじめて承認したものとして有名であるが、地連(自衛隊地方連絡部)の係員の行為について、それは県隊友会のための補助的な手伝いないし隊友会がした合祀申請を側面から援助する行為とみることはできないのであって、当時の隊友会の力量では事実上なしえないところの、本件合祀申請に向けられた積極的・核心的行為であるとしている。すなわち、地連の一連の行為がなけれぱ合祀申請は実現しなかったのであり、一連の経緯の中でとらえれぱ、合祀申請は地連職員と隊友会との共同の行為とみるべきであるとしたのである。
 山口地裁判決は、県護国神社も隊友会も地連職員も原告に亡夫を神道にしたがって礼拝するように強制しているわけではないことを認めながら、原告が自己の信じる宗教によって亡夫を記念し、その死の意味を探ろうとしているとき、他人よって勝手に亡夫を神社の祭神として祀られ、永代にわたって命日祭を斉行されることは、決して些細なことではないという。判決は、原告と隊友会との関係では祀られない自由と祀る自由の衝突がみられるが、国またはその機関(すなわち地連)が関与しているとされる以上、ことの性質上、憲法の政教分離に反する行為を行ったものとして評価され、その結果、公序良俗に反するものとして、私人との関係でも違法な行為と判断されるとした。
 この地裁判決には信教の自由と宗教的人格権の関係が必ずしも整理されておらず、


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また、宗教的人格権の憲法上の根拠について十分に説明されていない等の問題はあるが、宗教的人格権をはじめて承認したものとして画期的な意義をもっていると評することができる。同事件の第二審の広島高裁も地裁判決を基本的に支持した(広島高判昭57・6・15、判時1046・3)。
 しかしながら、最高裁判決(最判昭63・6・1、民集42・5・277)は、これとは異なった判断を示した。最高裁判決は次のようにいう。
 「人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によって害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならぱ、かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自已の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。(中賂)原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。」
 右の最高裁の判決は、信教の自由が何人にも保障されていること、そして、それは何人にも自己の信仰と相容れないものについて寛容を要請するのだという。最高裁の判決は、自已の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由が誰にも保障されていることを理由に、妻のいわゆる宗教的人格権の存在を否認したのであった。

(2) 中曽根首相靖国神社公式参拝訴訟
 いわゆる中曽根靖国神社公式参拝訴訟においても宗教的人格権が裁判の争点となった。これらの訴訟は、靖国神社に対する内閣総理大臣以下閣僚の公式参拝が実施されたことに対して、大阪、福岡、播磨・姫路の三箇所で提起されたものである。その違憲性を主張する原告らは、公式参拝は原告らの宗教的人格権を侵害するとした。そこでは自衛官合祀訴訟とはやや異なる要素もつけ加えられている。
 大阪で提起された訴訟(以下、関西靖国公式参拝訴訟という。)に対する地裁判決(大阪地判平1・11・9、判時1336・45)は、次のようにいう。
 「原告ら主張の信教の自由とは内心における宗教的信仰の自由をいうものと解されるが、右信教の自由に対する侵害があったといいうるためには、少なくとも信教を理由とする不利益な取扱い、もしくは宗教上の強制が具体的に存することが必要不可欠であるというべきところ(中略)原告らが本件公式参拝により具体的に信教を理由とする不利益な取扱いもしくは宗教上の強制を受けたものではないことが明らかである。」「原告ら主張の宗教的人格権ないし宗教的プライバシー権なるものは、いずれも実定法上の根拠を欠くのみならず、その権利ないし法的利益の内容が極めて個別的、主観的、抽象的なものであって、法律上の権利ないし法的利益として客観的に把握しうるような明確性を有しないから、にわかに権利保護の対象として承認することはできない。」
 関西靖国公式参拝訴訟では、信教の自由には確立された伝統的なものだけではなく、今日ではより広く拡張されたものも含むとの主旨の主張があり、その中で宗教的人格権が主張された。そして、そのような宗教的人格権の内容として「宗教的意味づけからの自由」も主張された。すなわち原告らは、内閣総理大臣の靖国神社へ


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の公式参拝によって原告らの肉親が靖国神社建立の趣旨にしたがい国家の英霊として再び「公式」に意味づけられることになったが、このことがそのような意味づけを望んでいない原告らの宗教的人格権を侵害するとしたのである。
 関西靖国公式参拝訴訟での宗教的人格権は、靖国神社との関係である一面が強調されたことは事実である。しかし、いずれにしても地裁判決において宗教的人格権は否定され、さらに高裁においても否定された(大阪高判平4・7・30、判時1434・38)。もっとも高裁判決においては、靖国神社公式参拝について違憲の疑いがあるとコメントされたことは特記に値しよう。
 宗教的人格権については、福岡公式参拝訴訟判決においても否定された。福岡地裁判決(福岡地判平1・12・14、判時1336・81)は、「本件における中曽根康弘が内閣総理大臣として行った靖国神社への参拝により具体的に原告らが信教上の強制を受けた点がないので、右の参拝が原告らの信教の自由に直接干渉するものと解することはできない。」とし、「また、原告らは、中曽根康弘が総理大臣として靖国神社へ参拝を行ったことにより、原告らが不快、怒り、あるいは国家神道の復活に対する危倶の念等の感情を抱いたであろうことは容易に察知しうるところであるが、原告らの主張する宗教的人格権、宗教的プライバシー権、平和的生存権なるものが、内閣総理大臣の靖国神社参拝による国家賠償法上法的保護に値する明確な権利であるとまで認めることは困難であるから、右のような感情を生じたからといって、原告らの権利が侵害されたとまでいうことはできず、法的な侵害があったとは認めることはできない。」とした。右の判決は高裁判決(福岡高判平4・2・28、判時1426、85)でも基本的に維持されたが、そこでは公式参拝については繰り返されると違憲になるとされたことが注目される。
 姫路の事件についての神戸地裁判決(神戸地姫路支判平2・3・29、訟務月報36・7・1229)は、「原告らの主張する宗教的人格権等なるものは実定法上その根拠を欠いているのみならず、原告らが宗教的人格権等を侵害されたというものの内容とするところは、(中路)本件公式参拝により原告らが抱いた不快感、憤りや怒りあるいは戦前のような国家と神道の結び付き復活への危惧といった宗教上の感情にすぎないものであると認められるが、かかる宗教上の感情は主観的、抽象的なものであって、国賠法一条の対象となる明確な法的利益(権利)としては到底認めることのできないものというべきである。」と判示した。この判決の控訴審である大阪高裁判決(大阪高判平5・3・18、判時1457・98)も一審地裁判決と同旨の判断であった。

(3) 宗教的人格権否定論について
 自衛官合祀訴訟最高裁判決では、宗教的人格権を認めれぱ、宗教行為の自由とくに祀る自由が損なわれるとの批判がなされている。確かに信教の自由が保障されている以上、誰でも自由に宗教的行為をなすことができる。すべての人は、祀る自由をもっている。しかし、そのことはいわゆる宗教的人格権を否定する理由にはならないであろう。問題の性質は、表現の自由・報道の自由とプライバシーの権利の関係と同様である。民主主義社会において、表現の自由・報道の自由は最大限に尊重されなけれぱならない(それらは国民の「知る権利」に奉仕するものでもある。)が、しかし、だからといってプライバシーの権利が無視されてよいことにはならないはずである。そこでは、表現の自由・報道の自由とプライバシーの権利の両者の調整が必要とされるのである。同様に、重要なことは、宗教行為の自由を認めながら同時に宗教的人格権を承認し、これをいかに調整するかである。それは、それぞれが人間の本質的な自由、尊厳を支える否定しがたい権利であるからである。


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 自衛官合祀訴訟において最高裁は、宗教的人格権=宗教的プライバシー権について否定的見解を示したが、宗教的人格権を明確に「権利」と位置づけなくても、少なくとも不法行為法上の保護を受ける利益と考えることもできるとの考え方もある。同事件最高裁判決の反対意見(伊藤正已裁判官)は、宗教的人格権=宗教的プライバシー権について「このような心の静謐は、人格権の一つということができないわけではないが、まだ利益として十分強固なものといえず、信仰を理由に不利益を課したり、特定の宗教を強制したりすることによって侵される信教の自由に比して、なお法的利益としての保護の程度が低いことは認めざるをえないであろう。しかし、そうであるからといって、宗教的なこころの静謐が不法行為における法的利益に当たることを否定する根拠となりえないことはいうまでもない。」という。このような考え方は、わが国の不法行為法の通説であるといってよいが、最高裁(多数意見)は、これも退けたのである。最高裁のこのような判断は、この点からも問題があるといえるであろう。
 一連の靖国神社公式参拝訴訟判決は、いずれも宗教的人格権を主観的・抽象的な感情にすぎないとした。しかし、宗教的人格権が宗教的プライバシーの権利である以上、「主観的」であることは、むしろ当然といえる。そもそもプライバシーの権利は、名誉権とちがって社会的地位や社会的評価という「客観的」価値に関わるものではない。しかし、「主観的」であるといってもそれは必ずしも「客観的」にとらえられないわけではない。後にも引用する「宴のあと」事件東京地裁判決(昭39・9・28、下民集15・9・2317)は、この点について、一般人の感受性を基準にして当該個人の立場に立って耐えがたい苦痛を感じると考えられる場合(誰でもその人の立場になれぱ耐えがたい不快感を覚える場合)、プライバシーの侵害を認めうるとした。宗教的人格権においても同様の考え方がとられるべきである。
 靖国神社公式参拝訴訟では、国と国民との間で宗教的人格権が問題にされていることを忘れるべきではない。国には宗教行為の自由は存在しない(憲法20条3項によって禁止されている)から、宗教的人格権ないし「宗教生活の自由」を認めることが宗教行為の自由を損なうことになるとの心配は無用である。

3 信教の自由の現代的展開について
 自衛官合祀訴訟で提起され、争われた宗教的人格権は、他人から干渉を受けない静謐の中で宗教的感情をめぐらせる自由であった。これは確かに確立された伝統的な信教の自由の内容とは異なっているといえる。それは、ある宗教を信じるように強制されない自由、信仰することを禁止されない自由とは違っている。それは、ある宗教行事に参加することを強制されない自由、参加を禁止されない自由でもない。宗教的人格権は、宗教に関して強制や禁止のレベルではなく、「干渉」のレベルでも保護されるべき利益があるとの考えに立っている。直接的な強制や禁止さらに不利益な取扱いに至らなくても信教の自由が侵害されることがあり、それは従来の信教の自由には含まれていないので宗教的人格権という言葉を使用しているのである。
 常識的にいって、個人が国家の管理や干渉から自由に、それぞれの思いと感情のもとに信仰生活を送ること、とくに自己の死の意味について考え、永遠なるものについて思索し、また、肉親の死をどのように宗教的に位置付けるかについて思いめぐらすこと等は否定すべきではなかろう。自已の死や肉親の死をどのように受けとめ、信仰や精神生活の中でどのように位置付けるかは、その人にとってその後の生き方にもかかわる重大な意味をもつ。そのような死や永遠なるものに対する感情は十分に尊重されるべきであり、法的な保護を考えてしかるべきであろう。


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さらに、各人が、自已の信仰、信心、信念に従って生きることは、個人の尊重、個人の尊厳を基調とする憲法のもとで最大限に尊重されるべきものであるといえる。個人の尊厳は自立と自律に求められる。自立・自律した個人によって組織される社会こそ憲法が前提にするものと考えられるが、そのような個人の自立・自律を内面から支えるものとして、独立した個人の道徳基礎として、信教の自由、精神生活の自由は拡充されるべきであろう。また、今日、多様な宗教が共存し、個人の価値観も多様化し、多元的な信仰形態が広がっている現実を考えても、従来の信教の自由を超えた新たな展開、いわぱ現代的展開を考えるべきであるように思われる。
 このような自由は、宗教的人格権という言葉を避けるなら、「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」といってもよかろう。このような「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」は、厳格な意味では宗教といえないもの、すなわち死生観や死の意味づけ(したがって生の意味づけにもなる。)等に関する体系的な信念も含むものとして考えられるべきである。また、それが「無信仰生活の自由」ないし「非宗教生活の自由」を含むことも、信教の自由が無宗教の自由を含む以上、当然といえる。要するに、それは個人の究極的な価値観にかかわる信念等も含んでいるのであり、いわゆる宗教者や特定の宗教の信仰者にのみかかわる自由ではないことを強調しておきたい。
 次に、信教の自由の現代的展開すなわち信教の自由の拡充・拡大の憲法上の根拠について検討したい。
(1) 政教分離と宗教の私事性
 この問題を考える際には、日本の政教分離について、今一度、確認しておく必要があろう。
 実は、今日でも政教分離を採用している国は、世界的にみれぱ決して多数派とはいえない状況である。信教の自由は、普遍的な人権として少なくとも建前上はこれを否定している憲法はないといってもよかろうが、政教分離は必ずしも普遍的とはいえない状況である。すでに触れたように、国際人権規約(B規約)も信教の自由の保障をうたっているが、政教分離については採用していない。
 今日の世界でも、政教関係については、多様なものが存在しており、いわゆる「先進国」とされる国においても、たとえぱイギリスのように「国教制」をとっている国やドイツのように「公認教制」をとっている国もある。このような国では、信教の自由を認めながら、一つの宗教を国の宗教としたり、特定の宗教に公の地位を与えたりしているわけである。
 日本では、歴史的な経緯(戦前の国家神道体制による国民支配からの解放)から非常に厳格な政教分離がとられているが、そうである以上、そこには信教の自由の新たな展開を可能にする基礎が見いだされるはずである。政教分離制の下では、すでに述べたように、宗教はいかなる意味においても公の地位をもたない。宗教は私事として位置づけられる。日本国憲法の趣旨からすると、宗教は私事として尊重されると解されることについては前述した。宗教が個人の究極的な関心事であり、個人の存立の基盤である以上、宗教を私事として尊重することが、個人の尊厳およびそれを支える個人の自立と自律を確保することになることも理解すべきである。私事としての宗教の尊重は、信教の自由を豊かに発展させる基盤となろう。宗教の私事性からは、一人ひとりが、公的な関心から自由に宗教生活を送ることが保障されよう。個人が自らの信念、信仰にしたがってその人なりに生きることすなわち個人の信仰生活の自由が妨げられないことが要請されるのである。そこでは信教の自由の新たな展開が論じられるべきであるといえよう。


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(2) プライバシーの権利と「信仰生活の自由」
 このような信教の自由の新たな展開については、プライバシーの権利との関係で論じることができる。プライバシーの権利の憲法上の根拠については、憲法13条があげられる。同条の個人の尊重、幸福追求権の保障が、いわゆるプライバシーの権利の根拠規定とされていることは周知のとおりである。宗教が人間の「魂」の問題として、一人ひとりの生活、存在を支えるものであり、個人の尊厳を支える究極のものであるとするなら、宗教は心の奥底の問題として他者の干渉を受けない領域に置かれなければならない。特に本人が自己の死についてどのように位置付けるか、親しい人の死をどのように心に刻み、追悼・慰霊するかはきわめて個人的な問題であり、個人にまかされるべき事柄である。
 自衛官合祀事件で争われた宗教的人格権は、一種のプライバシーの権利ともいえよう。そこで、次にプライバシーの権利について検討する。プライバシー権については、前にも触れた「宴のあと」事件東京地裁判決がはじめて法的権利として認めた。同判決は、「近代法の根本理念の一つであり、また日本国憲法のよって立つところでもある個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによって初めて確実なものになる」とした上で、「私事をみだりに公開されたくないという保障が、今日のマスコミュニケーションの発達した社会では個人の尊厳を保ち幸福の追求を保障するうえにおいては必要不可欠なものであるとみられるに至っている」との認識を示し、「その尊重はもはや単に倫理的に要請されるにとどまらず、不法な侵害に対しては法的救済が与えられるまでに高められた人格的な利益であると考えるのが正当であり、それはいわゆる人格権に包摂されるものではあるけれども、なおこれを一つの権利と呼ぶことを妨げるものではない」とした。
 同判決が、憲法13条にプライバシー権の根拠を求めたことは周知のところであろう。プライバシーの権利は、現行法上は明文の規定があるわけではないが、個人の尊重、尊厳の原理から今日当然保障されるべき権利として認知されたのである。
 このようなプライバシーの権利は、公開されたくない権利、知られたくない権利からさらに「放っておいてもらう権利」、他者から干渉されないで私生活を送る権利すなわち私生活の自由として広く承認されるようになっている。プライバシーの権利は、ライフスタイルの自由さらに自己決定権へと発展していった(他方、プライバシーの権利は自己情報コントロール権の方向へ展開していくが、これについては立ち入らない。)。
 プライバシーの権利は、元来アメリカで発達してきた権利であるが、今日では世界的に認知されている。国連の世界人権宣言(1946年)もプライバシーの保護をうたっているし、国際人権規約のB規約(1966年)でも私生活の自由が保障されている。プライバシーの権利はその内容が豊かになると同時に世界的に広がっていったのである。
 プライバシーの権利は時代とともにその内容を豊かにしてきたが、特にそれを「私生活の自由」としてとらえる考え方は、信教の自由の新しい展開を考える際に大変重要な意味をもつように思われる。すでに述べたように、政教分離制の下では宗教は私事として位置づけられる。そして、そのような宗教は、個人の「魂」の根拠として最大限尊重されなけれぱならない。それは、個人の私的領域の最深部のものとして保護されなけれぱならないのである。ここで政教分離制の下での宗教の私事性の原則は、個人の尊重、尊厳の原理に由来するプライバシーの権利の保障と接


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点をもつことになる。
 宗教が私事として他人の干渉から自由なものとして位置づけられるなら、宗教に対する強制や禁止を超えて「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」をそこに認めることも可能であろう。そのような「信仰生活の自由」は、すなわち宗教的プライバシー権と同義であり、宗教的人格権として議論されたものに重なるものであることも理解されよう。
 ところでプライバシー権は、しぱしぱ表現の自由・報道の自由と衝突することがある。これらの自由は、国民の「知る権利」を基礎づけるものと解せられている。すでに触れたように、衝突するならぱ両者の調整が必要とされるであろう。「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」に関しても同様であることも前述した。
 なお、「宴のあと」事件東京地裁判決は、憲法上の根拠とは別に、すでに実定法上断片的ではあるが、プライバシーの権利というべきものが保護されているとし、軽犯罪法1条1項23号ののぞき見行為の処罰規定、民法235条の1項の相隣地観望の規定、刑法133条の信書開披罪の規定をあげている。それに倣えば、刑法の礼拝所及び墳墓に関する一連の規定が宗教的感情を保護していることに留意すべきとの指摘ができよう。

(3) 憲法20条3項について
 信教の自由の新たな展開についての憲法上の根拠については、憲法20条3項の意味が吟味されるべきである。同条同項は、一般に政教分離の規定と解されているが、国家に一定の行為の禁止を命じているから、人権規定でもあると考えられる。すなわち、「国及びその機関が宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」という文言は、広く宗教的活動を禁止していると同時に個人に向けられた宗教教育その他の具体的宗教行為・個々の宗教活動を禁止していると解せられる。だとすると、憲法20条3項は、個人の信教の自由を保障する人権規定であるともいえるのである。
そのように理解することができるとすると、憲法21条2項「検閲は、これをしてはならない。」という規定から国民の検閲されない自由が導かれるように、また、憲法36条「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」との規定から国民の拷問や残虐刑からの自由が導かれるように、憲法20条3項から、国民の一定の自由が導かれるのである。そのような自由の内容は、同条同項の文言からすると、宗教教育だけでなく、個人が特定の宗教を受け入れるようにはたらきかけられない自由、布教されたり、特定の宗教へ誘導されない自由、宗教的に意味付けられたり、宗教的評価を加えられない自由も含まれると考えられる。
 現在、一部の論者から政教分離人権説が主張されている。憲法の政教分離の規定によって保護されている人権が存するという主張であるが、その「人権」の内容をなすのは、宗教的少数者の宗教的圧迫からの自由や干渉からの自由である。政教分離は、国家と宗教の関係を指す観念であり、宗教に関する自由ないし人権であるなら信教の自由の問題として考えればいいから、政教分離人権説という観念を採用することには躊躇を感じるが、そこで主張されていることの意味は理解できる。それが直接の強制や禁止に至らなくても保護されるべき自由があるとする点は評価すべきであろう。
 憲法上、政教分離が信教の自由と一体的に保障されていることも、国家との関係で「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」を認める一つの根拠


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となろう。繰り返しになるが、政教分離制の下では宗教は私事として位置付けられる。日本国憲法の趣旨からすると、それは宗教の軽視や無視を意味するのではなく、宗教は私事として尊重されるという意味をもつ。信教の自由を尊重し、個人の精神生活の自由を保障する観点で政教分離が導入されていると考えられる以上、国家からの干渉なしに信仰生活を送る自由、宗教的ライフスタイルの自由が保障されていると思われる。しかし、より直接的に憲法20条3項は、国民に国家の宗教的活動からの自由を保障していると解釈できる。憲法20条3項のそのような解釈は、その規定の構造からして決して不自然ではないことはすでに述べたところである。なお、「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」については、憲法13条を媒介にして、私人相互間の領域にも妥当するものとして考えることができよう。

(4) 判例における信教の自由の新たな展開
 民事判例の中でも信教の自由の新たな展開が見られる。遺骨の保管を委託された寺院(宗教法人)が、遺骨を別の骨壷に移し替えた際、残った遺骨を遺族に無断で合葬処分したことが、遺族らの宗教的感情や人格的利益を侵害するものとして不法行為を構成するとした事例がある(横浜地判平7・4・3、判時1538・200)。同判決は、次のようにいう。
 「…人の遺骨は、一般社会通念上、遺族等の故人に対する敬愛・追慕の情に基づく宗教的感情と密接に結び付いたものであり、このような心情は一種の人格的法益として保護されるべきものであるから、これを扱う者に、宗教的慣習ないし社会通念に照らして適切とはいえない面があった場合には、それは右の人格的法益に対する侵害として遺族等に対する不法行為をも構成するものと解されるところ、本件処分は、特段の事情のない限り、遺骨の扱いとしては適切とはいい難く、右の不法行為を構成するものと解するのが相当である。」
 そこで保護されるべきとされる心情が、自衛官合祀訴訟で主張された宗教的人格権と同一のものであるかどうかについては議論もあろうが、宗教に関する人格的利益であることはまちがいない(なお、遺族感情の保護については、死体解剖保存法や臓器の移植に関する法律が、遺族の承諸を求めていることも参照されるべきであろう。)。
 いわゆるエイズ・プライバシー事件(大阪地判平1・12・27、判時1341・53)においても遺族の敬愛・追慕の権利が問題になった。エイズ・プライバシー訴訟大阪地裁判決は、雑誌出版社の行為について、故人が、本件報道によって、生存しておれぱプライバシーの権利の侵害となるべき私生活上の他人に知られたくないきわめて重大な事実ないしそれらしく受け取られる事柄を暴露されたものということができる、とし、本件報道は、故人の名誉を著しく毀損し、かつ生存者の場合であれぱプライバシーの権利の侵害となるべき故人の私生活上他人に知られたくないきわめて重大な事実ないしそれらしく受け取られる事柄を暴露したものであるが、このような報道により故人の両親である原告らは、故人に対する敬愛追慕の情を著しく侵害されたものと認められる、と判示した。判決は、本件報道は、原告らの右人格権を侵害するものである、と結論づけている。
 付言すると、同判決では、告別式(本件ではキリスト教形式によった。)の静謐を侵害する行為が不法行為にあたる場合があるとの認識が示されていると解すること


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ができる。判決は、雑誌出版社の記者による故人の遺影の撮影が遺族らの宗教的行事に関するプライバシーの権利ないし宗教的行事を平穏に行う権利を侵害したという主張に対して、「取材行為としては通常許された範囲を逸脱したものであるが、未だ前夜式を妨害し、又はその平穏を著しく害したとまではいえない。」と判断しているが、このことは、「宗教的行事に関するプライバシーの権利ないし宗教的行事を平穏に行う権利」の存在を前提にしたものであることはいうまでもない。
 神戸高専事件は、信仰に基づく剣道実技の拒否に対する退学処分に関して争われた事例であるが、信教の自由の新展開についての裁判所の判断として注目されるべきものであろう。同事件最高裁判決(平8・3・8、民集50・3・469)は、信仰上の理由で格闘技を行い得ないとする信者・学生に剣道実技の履修を求めることが、直接信教の自由を侵害するものではないとしても、それが信仰によってそれを拒否している者に自已の信仰上の教義に反する行動をとらせることを余儀なくさせていることを認め、学校側の退学処分を違法と判断した。このことは信教の自由を拡充・展開する点で重要な意味をもっている。信者・学生の信仰が禁止されたり、転宗が強制されたりしたわけではないが、自已の信教に基づいて生きる権利が損なわれることを認定したからである。そこには、単なる趣味や好みの問題と信仰を区別する考え方があるといえる。信仰あるいは宗教的信念は個人の存立の根拠となっていることを理解し、これを尊重すべきとの考え方があるのであろう。最高裁判決は次のようにいう。
 「…被上告人が剣道実技への参加を拒否する理由は、被上告人の信仰の核心部分と密接に関連する真しなものであった。…本件各処分は、その内容それ自体において被上告人に信仰上の教義に反する行動を命じたものではなく、その意味では、被上告人の信教の自由を直接的に制約するものとはいえないが、しかし、被上告人がそれらによる重大な不利益を避けるためには剣道実技の履修という自已の信仰上の教義に反する行動を採ることを余儀なくされるという性質を有するものであったことは明白である。上告人の採った措置が、信仰の自由や宗教行為に対する制約を特に目的とするものでなく、教育内容の設定及びその履修に関する評価方法についての一般的な定めに従ったものであるとしても、本件各処分が右のとおりの性質を有するものであった以上、上告人は、前記裁量権の行使に当たり、当然そのことに相応の考慮を払う必要があったというべきである。」
 神戸高専事件には、公立学校の宗教的中立性、政教分離の問題等があり、そこには複雑な問題があるが、個人が信仰に基づいて生きることの意味を認め、なおかつそのことを理解することが公立学校の宗教的中立性に反するとはいえないとした点でも注目に値する判決であるといえよう。付言すれば、最高裁判決は、個人が信仰に基づいて剣道実技を拒否していることの意味を理解することは信仰に立ち入ったことにならないと判断したのである。そのような形での判断は、拒否の理由を客観的に把握する点で必要であるし、可能でもあるとしたのである。
 東大医科研付属病院輸血事件も重要な意味を持っている。信仰に基づいて輸血を拒否している患者(「エホバの証人」の信者)に無断で輸血した病院側の行為について、東京高裁(平10・2・9、判時1629・34)は、患者の同意は各個人が有する自己の人生のあり方(ライフスタイル)を自らが決定することができるという自已決定権に由来するものであるとし、無断輸血は、医療における患者の自己決定権及び


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信教上の良心を侵害するとして、その違法性を認めた。同判決は、念のためとしながら、「人が信念に基づいて生命を賭してでも守るべき価値を認め、その信念にしたがって行動すること…は、それが他者の権利や公共の利益ないし秩序を侵害しない限り、違法となるものではな(い)」とも述べている。
 同事件高裁判決が述べているところをさらに引用・紹介する。
 「本件のような手術を行うことについては、患者の同意が必要であり、医師がその同意を得るについては、患者がその判断をする上で必要な情報を開示して患者に説明すべきものである。もちろん、これは一般論であり、緊急患者のような場合には、推定的同意の法理によるべきであるし、その説明の内容は、具体的な患者に即し、医師の資格をもつ者に一般的に要求される注意義務違反を基準として判断されるべきものである。この同意は、各個人が有する自己の人生のあり方(ライフスタイル)は自らが決定することができるという自己決定権に由来するものである。被控訴人らは自己の生命の喪失につながるような自己決定権は認められないと主張するが、当裁判所は、特段の事情がある場合は格別として(自殺しようとする者がその意思を貫徹するために治療拒否をしても、医師はこれに拘束されず、また、交通事故等の救急治療の必要がある場合すなわち転医すれぱ救命の余地がないような場合には、医師の治療方針が優先される。)、一般的にはこのような主張に与することはできない。すなわち、人はいずれ死すべきものであり、その死に至るまでの生きざまは自ら決定できるといわなければならない(例えばいわゆる尊厳死を選択する自由は認められるべきである)。」
 判決は、以上のように述べ、患者が本件輸血によって医療における自己決定権及ぴ信教上の良心を侵害され、これにより被った精神的苦痛は大きいものがあったと認められる、とした。
 同事件最高裁判決(平12・2・29、民集54・2・582)も患者側の主張を認め、承諸を得ない輸血の強行が信仰に基づく意思決定の権利(それは人格権の一つとして法的保護の対象とされる)を侵害したものであり、人格権侵害として被告(医師および病院=国)に患者の精神的苦痛を慰謝すべき責任があると判断した。最高裁の判断は、直接には説明義務違反(輸血の可能性を説明しなかった)を理由に不法行為の成立を認めたものであるが、宗教上の信念に基づいて輸血を拒否する意思決定をする権利すなわち自已決定権を容認したものであるといえる。最高裁は次のように、述べている。
 「…患者が、輸血をうけることは自已の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなけれぱならない。そして、患者が、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができると期待して医科研に入院したことを医師らが知っていたなど本件の事実関係の下では、上告人らは、手術の際に


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輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、患者に対し、医科研としてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、医科研への入院を継続した上、上告人らの下で本件手術を受けるか否かを患者自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である。…本件においては、上告人らは、右説明を怠ったことにより、患者が輸血を伴う可能性があった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、その点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。」
 東大医科研付属病院輸血事件では、自己決定権が信教の自由と重なり合っており、そのことによって信教の自由が拡充されているといえる。同事件では、信仰が自己決定と絡むことによって、自已決定に深みと重みが与えられているが、同時に信教の自由についても新たな展開がなされていると考えられるのである。個人が信仰、信念に従って生きるという生き方の自由、信仰生活の自由は、高度に保護されなけれぱならないことを同事件の高裁、最高裁判決は認めているのである。高裁と最高裁では表現の仕方が若干異なっているが、いずれも医療の場におけるインフォームド・コンセントとして認められている観念にかかわりながら、信教に関する自已決定権を尊重する判断であることには違いない。医療の場における問題ではあるが、信仰に基づく判断が、その人の生き方、ライフスタイルの中核をなしている以上、それを尊重すべきとしたわけである。
 東大医科研付属病院輸血事件では患者の信教の自由について直接の禁止や強制があったわけではないにもかかわらず、輸血の強行によって患者の信仰生活が否定されたことが認められた点が重要であろう。患者は、輸血の強行によって、自己の信仰が否定され、長年築いてきた神との関係が絶たれたような思いをさせられ、その後の人生が崩壊するような危機感さえ感じた。そのような意味で患者の信仰生活の自由が侵害され、甚だしい精神的苦痛を蒙ったわけであるから、法的に救済されるべきと判断されたのである。

4 おわりに
 宗教的人格権は、自衛官合祀訴訟や靖国神社公式参拝訴訟の裁判では否定されたが、その後、信教の自由を拡充する判決はいくつも出されている。もちろん、事案はそれぞれ異なるが、一定の流れを見いだすことは決して不可能ではない。それを「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」と呼ぶか否かは別にして、信教の自由の拡充・拡大は確実に進んでいるといえよう。
 信教の自由の新たな展開には批判もありえよう。宗教的人格権や「信仰生活の自由」の議論については、日本独自の議論であり、普遍性をもたないのではないかとの疑問があろう。これらの議論が日本でなされてきたのは、やはり日本国憲法の先進性に負うところが多いと考えられるが、日本が人を神として祀る国であることにも関係している。キリスト教国やイスラームの国ではありえない現象が日本には見られるのである。宗教的人格権や「信仰生活の自由」が日本独自の議論であることは否定できないが、それにはそれだけの理由があるのである。
 「信仰生活の自由」や「宗教的ライフスタイルの自由」という観念を立てずに、人


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格権ないしプライバシー論の一部(静謐権)として議論した方がよい(その方が普遍的な問題になる)との意見もあろう。しかし、宗教が現世の価値を超越するものであり、個人の究極的関心事であることからすれば、自ら信じるところにしたがって生きる権利を直視して議論をすることは可能であり、意味があるともいえよう。日本国憲法の信教の自由、政教分離規定の先進性、日本における宗教に対する国家の介入、統制、弾圧の歴史、そして日本では人が神として祀られることを考えれぱ、「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」とでもいうべき観念を立てて議論する(この観念は問題の対象を明確にするためのものであり、この用語にこだわるわけではない。)意味は十分にあるように思われる。
 人権や自由の歴史をみれば、時代とともにそれらが拡充・拡大されてきたことは否定できない。そこには現実的な必要性があったからである。一般には世俗化が進んでいるといわれる現代社会の中で「信仰生活の自由」等の形で信教の自由の新たな展開を議論することに懐疑的な意見もあろう。しかし、世俗化とは伝統的な宗教がそのままでは維持されにくいことを意味するのであり、新しい形の宗教やいわゆる個人宗教あるいは個人的な宗教観を求める動きは、むしろ活発になっているように思われる。伝統的な「家」の宗教から解放されて、宗教は個人的なものになる傾向が強まっていることも指摘されているところである。たとえぱ、個人墓の増加もそのことを物語っている。また、自然葬・散骨の運動もその一つである(死後、伝統的な墓(家墓)から解放されて、大自然の中に抱かれて永遠の眠りにつきたいとの思いは、宗教というべきかどうかは別にして、一つの死生観であることは違いない。)。そのような運動の中で散骨については、法務省も節度をもって行われる限り、これを容認する見解を出している(1991年10月5日)。「墓からの自由」が認められたのである。さらには、霊感・霊視商法被害をめぐる訴訟の中では宗教的自己決定権もが主張なされている。このことについては立ち入らないが、このような方向でも信教の自由の新たな展開について議論が可能であれば、その内容はより広がりをもってくるであろう。
 以上のことを踏まえるならぱ、今日、単に信仰の強制や宗教行為の禁止といった狭いものだけではなく、「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」とでもいうべき方向への信教の自由の拡充・拡大に積極的な姿勢が要請されているといえよう。宗教・宗教的なるものについて個人の私的領域の最深部の事項として他人から干渉されない自由が認められるべきである。現代社会において宗教あるいは宗教的なるものが多様な展開をみせ、また、これらに対する立場、態度も様々に分化・錯綜していることからすれぱ、「信仰生活の自由」ないし「宗教的ライフスタイルの自由」を容認する必要性は、今後、ますます高まっていくであろう。信教の自由の拡充・拡大は時代の要請でもあるが、しかし、日本では国家と宗教をめぐる歴史的問題がこれに重なって存在していることも忘れるべきでない。いわゆる国家神道の問題や靖国問題等の「古い」問題があり、現に特定の宗教は別格扱いにされている。戦没者等を国家の英霊から解放しない状況も現存している。個人がそのよ


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うな状況から解放されるための論理として信教の自由の新たな展開が要請されていることも強調しなけれぱならないのである。信教の自由の拡充・拡大は、二重の意味で必要とされているのである。

                           −以上−
 2003年10月15日
      
                      龍谷大学法学部教授

                      平野 武























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